貴州・湖南を巡る旅。5日目(鳳凰→銅仁→鎮遠)
Schedule
1日目
関西→(中国南方航空)→長沙
長沙(泊)
2日目
長沙→(高速鉄道)→貴陽
貴陽(泊)
3日目
貴陽
貴陽(泊)
4日目
貴陽→(天津航空)→銅仁→鳳凰
鳳凰(泊)
5日目
鳳凰→銅仁→鎮遠
鎮遠(泊)
6日目
鎮遠→凱里→長沙
長沙(泊)
7日目
長沙→(中国南方航空)→関西
鳳凰からバスで1時間で貴州省銅仁に戻り、さらに銅仁からバスに乗り換え2時間。
やってきたのは、鎮遠という街だ。
貴州省を代表する昔ながらの街並みを残すエリアで、鳳凰に比べると控えめだが、川に映るこの町の夜景は鳳凰にも負けないくらいの絶景だ。
また、旧日本軍の軍人数名が捕虜となりこの鎮遠に収容され、現地中国から日本に向けて反戦活動を行ったそうで、収容所が今でも残されている。
鎮遠は、バスターミナルと鉄道駅は隣接していて、街中までは路線バスで結ばれているが、歩いても十分いける距離だ。
Heping StとS306が交わるあたりからが中心街だ。
こちらは銅仁の街中にある「興市橋」。橋の上では飲食から衣類、そして文具までさまざまな露店が開かれている。
銅仁の街中は、雑居ビルが密集していて、あまり落ち着ける雰囲気ではなかった。
※銅仁の町並みに触れていただけます。
今回は、鳳凰の時とは異なり、街の中心にあるバスターミナルから出発。
一路、鎮遠を目指す。
バスが出発して数十分。バスは、どんどん山を登って行く。
もともと悪天候だったこともあり、外は濃い霧に覆われていた。
大雨の中高速を飛ばすこと約2時間。雨の滴る鎮遠バスターミナルに到着。
和平村は、もともと刑務所として作られたが、戦争を期に収容所となったそうで、ここに137名の日本兵が捕虜として収容されていたそうだ。
流石に外壁を眺めると収容所であるが、内部には広々とした空間が有り、収容所や刑務所のような重苦しい雰囲気は感じなかった。
抗日戦争が勃発して、国共合作により、国民政府軍政部が成立して周恩来が副部長となり、下に3つの機関が設置された。
そのひとつの第3庁は、日本軍への宣伝工作、捕虜の管理や教育などを担当した。
庁長は、郭沫若氏が庁長を務めた。
ここに収容された日本兵らは、比較的自由の効いた環境に置かれたそうで、山菜を採りに行ったり、川でで魚を捕ったり、また玩具を作って街に売りに出たりなどしていたそうだ。
1946年3月、長谷川敏三隊長の統率により日本に戻り、東京で集会を開き、「生涯、日中友好と世界平和のために奮闘する」と誓いを立て、1982年から5年間に3度、同胞とともに再びこの地を訪れ鎮遠を、自分たちの再生の地であり、第二のふるさとだと述べたそうだ。
japanese.china.org.cnより一部引用
鎮遠の町並みは、鳳凰とはまた違った良さがあった。
木造の多い鳳凰と比べて、鎮遠は石づくりのカクカクした感じ。
また、日が沈むと川沿いの家家にぶら下げられた提灯に火が灯り、それらが革に移り、川にもうひとつの街が浮かび上がる。
これぞ鎮遠ならではの見所だ。
※こちらで、鎮遠の町並みに触れていただけます。
ちょっと小腹がへったので、食堂に入っておやつタイム。
夕食は酸っぱ辛いラーメンを、和平村の近くに出ていた夜市で頂いた。
無愛想なお母さんだったけど、味は確か!!
ホテルは、和平通り沿いにある「JUNHAO INN」。
一泊1600円程度。
何故かジャン卓がありが部屋の広くて、窓を開けると鎮遠の街並みが眺められる素敵なホテル。空調機能もハイテク。
ただ、トイレの便座がなく、腰を浮かせて用を足さなければならないのが難点。
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